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    題名: 東台灣太魯閣事件及太魯閣蕃討伐戰役初探
    其他題名: 東台湾におけるタロコ事件とタロコ蕃討伐戦役の初歩的考察
    作者: 鴻義章
    貢獻者: 原住民族研究中心
    關鍵詞: 太魯閣事件;新城事件;威里事件;七腳川事件;太魯閣蕃討伐戰役
    タロコ事件;新城事件;威里事件;七脚川事件;タロコ蕃討伐戦役
    日期: 2015-10-30
    上傳時間: 2016-01-05 13:36:49 (UTC+8)
    摘要: 1871年牡丹社事件,開啟了國際勢力入侵「台灣生蕃地區」的一扇門。1874年參與征台之役的年輕少佐 樺山資紀,20年後担任台灣第一任總督(1895),參軍 佐久間左馬太則担任台灣第五任總督(1906.05.23)。「太魯閣事件」泛指1895年日本入主台灣後,所發生的諸多遭遇戰,如:新城事件(1896)、威里事件(1906)、七腳川事件(1908)以至太魯閣蕃討伐戰役(1914)。1896年花蓮港守備隊新城監視哨軍人,因採沙金及發生太魯閣婦女問題情事,引發太魯閣人殺害監視哨的13名日軍,而後日軍討伐是謂「新城事件」。1906年7月因樟腦薪資發放問題,導致大山十郎等25人不幸罹難,引發了「威里事件」。1907年興建花蓮第一條「威里隘勇線」。1908年5月興築「巴督蘭隘勇線」,以七腳川社阿美族為隘勇。後因日方咸認所屬隘勇常「棄隘務不顧」,引發1908年12月日軍討伐的「七腳川社事件」。並將其土地作為日本移民村。1909年並完成「七腳川隘勇線」。1914年完成「得其黎隘勇線」,經數次「山地調查」後,動用軍、警、人伕萬餘人,進行軍事討伐三千名太魯閣人,是為「太魯閣蕃討伐戰役」。佐久間總督的政策,前期以推進隘勇線為主,後期以「五年理蕃計畫」進行大規模討伐。太魯閣蕃討伐戰役後,東台灣原住民族地區才算正式被納入國家體制。但「生蕃」並無「臣屬」的概念,也無「投降」的字言,更未與外界的政權簽訂條約, 他們深信擁有東台灣主權。為了自主的國度及生存的空間,是其與日本發生諸多遭遇戰而不懈的原因,咸認應與目前政界所謂的「抗日」的本質迴異並應予區隔。
    1871年の牡丹社事件は、外国勢力が「台湾生蕃地区」に侵入する扉を開いた。1874年に征台の役に参加した若き少佐樺山資紀は20年後初代総督となり(1895)、参軍(訳注:参謀的役割の軍人)の佐久間左馬太は第五代の総督となった(1906.5.23)。「タロコ事件」とは広義には1895年に日本による台湾支配開始から発生した多くの遭遇戦のことを指す。例えば、新城事件(1896)、威里事件(1906)、七脚川事件(1908)、それからタロコ蕃討伐戦役(1914)までがその範囲である。1896年花蓮港守備隊新城監視隊の軍人が、砂金採掘とタロコ女性についての問題を起こし、そのためタロコ人が監視隊の日本軍13名を殺害し、その後日本軍が討伐したのが「新城事件」である。1906年7月、樟脳の給与支給問題に端を発し、大山十郎ら25名が不幸にも殺害されたのが「威里事件」である。1907年には花蓮初となる「威里隘勇線」が設置されている。1908年5月に「巴督蘭隘勇線」が構築され、七脚川社のアミ族を隘勇とした。その後日本側はこれらの隘勇が常に「隘勇業務を顧みない」と認めたため、1908年12月に日本軍による討伐が行われたのが「七脚川事件」である。そしてその土地は日本人の移民村とされた。1909年には「七脚川隘勇線」が完成している。1914年に完成した「タッキリ隘勇線」は、数回にわたる「山地調査」を経て、軍・警察・人夫1万人余りを動員して三千名のタロコ人の軍事討伐を行った結果であり、それが「タロコ蕃討伐戦役」である。佐久間総督の政策は、前期は隘勇線の前進を主とし、後期は「五年理蕃計画」による大規模討伐の推進であった。タロコ蕃討伐戦役の後、東台湾の原住民族地区はようやく正式に国家体制に取り込まれることとなったのである。しかし、「生蕃」には「臣下となる」という概念がなく、「投降」という文字もなければ、外来の政権と条約を結ぶなどいう事はあり得ず、彼らは東台湾の主権を有しているとひたすら信じていたのである。自らが主人であるクニとその生存空間のために、日本と幾度となく遭遇戦となることをいとわなかった理由は、現在の支配者が言うところの「抗日」の本質とは大きく異なっており、また区別されるべきものである。
    關聯: 第八 回台日原住民族硏究論壇
    主辦單位: 政大原住民族研究中心主辦
    舉辦日期:2015.10.30-11.1
    資料類型: conference
    顯示於類別:[2015第八回台日原住民族硏究論壇] 會議論文

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